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わかっちゃいるけどやめられn(ry
なんか重なるときって重なるものですね。
前回更新時は中間試験のあとに更新しようかと思ってたんですが数学たんが袖を放してくれなくてねぇ。
特にルベーグ積分たんが――
誰に謝るでもなく自分のものぐさっぷりを恨めばいいんですが恨んだところで何も生まれませぬし。
数学云々のお話は別記事においておくとして、つい最近はMacbook air欲しいなーと思ってます。どうでも宜し。
新型が出るとか出ないとかの発表会が6月11日でしたっけ。
時間早く立ち過ぎですね。そこらへんの時期は確か課題やらなんやらで4日くらい睡眠不足が続いていた気がします。
Appleさん()のことなので、当初は半期待半疑で情報を待っていました。大したこと無かったら2012型を安くなるまで待つ予定でもありました。
が、箱を開けたらバッテリーの持ちを初めとする圧倒的な性能の新型ではありませんか。これは新型一択でしょう。
長い目で見れば相対的に安いものです。ええ相対的には。
今このページを編集しているPCは昨年の1月に買い替えたものです。
展示品だったか現品ラストだったかで少しお値打ちに購入した覚えがあります。うろ覚えです。
このLaVie、お値段抑え目の割になかなか性能は宜しいです。手に馴染むデザインもいいですね。
僕は結構動物的直感を信じていて、何でもびびっときたら出し惜しみせず買います。
どこかで妥協した物を買ってしまうと、その点以外でもどこかで我慢しなければならなくなってくるものです。無意識のうちに我慢しなきゃと思って付き合っているからでしょうか。良好な関係が続く気がしません。
現に前のPCはお安いもので、その点だけは良かったのですが、一つぼろが出てから信頼が瓦解していったのを覚えています。修理代やらで結局費用的にも損失が大きくなってしまいました。最後はファンが逝ってよく分からないまま物理的に死にました。畜生マウスコンピューターめ。
その点この子(現役機)はいい子です。ひいき目もたっぷり含まれていますが、信頼ってそんなもんでしょう()。
で、新型MBAはどうか。
名駅に行く度にソフマップで実機を触っていますが、なにかが琴線に引っ掛かっていい感じです。
去年の10月にiPod touchを発売直後に購入して、今まで持っていたmac製品の独特さに馴染んできたこともあるのでしょうか。
「買ってどうするの?」と言われたらサブ機として持ち運んで文章打ったりするつもりではありますが、きっとそれやる前に自由が無くなる(=就職)することになるはずです。役不足感も否めませんし。
でも欲しいです。今のところ、よく分からない自身に満ちています。これって、恋かな……?(上目遣い)
そんなわけでハイソなものに手を出そうかと考えている次第です。
いい物は一生もの、というのは電化製品には言えない話でしょうが、悔いのない買い物にはなりそうです。
あとはお金だけ……。
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貴重な睡眠時間を尽く潰してやってきた更新もこれで最後です。途中寝落ちしたのがありありと分かりますね。
ともかく。
自分がコミュ障であることは小学校から大して変わっていない話です。といっても、毎日の過ごし方は今よりも随分楽しかったと思っています。
もう一度戻りたいだとかそういった気持ちを抱える症状が再発しています。
割り切れたものだと思っていたんですけどねぇ。こう考えてしまうのは現状に満足できなくなっているからでしょうか。
こんな自分も嫌いです。
思い出は常に美しいものです。後ろを見れば、補正がかかった自分の輝かしき記憶を見られるのは判り切った話です。
そんなことにいつまでも縋っていても意味が無いのは知っているつもりです。
現実は美しいまでに残酷です。栄光にしがみついたままの進歩は無いと言うと耳が痛い。
思い出は良い形悪い形関係なく美しくなるのなら、今をよりよく生きてこの瞬間を美しくして見せようぞ。
とも心の隅っこで復唱しています。
おそらくそれを実現しようとすることこそが価値のある生き方であって、人生を謳歌する秘訣ではないでしょうか。
……とまあ偉そうに講釈を垂れても一番聴くべき人には伝わっていませんが。
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もうちょっとだけ書いておきたいこと。
一連の厄日云々のお陰で、恥をかくことだけを気にしてゴールを全力で目指さないタイプの人間であることをまざまざと思い知らされています。
結局中途半端なことしか残せないんですよね。そこから大きな恥をかいたり損したりするのも自分に他なりません。
なんとなく周りに迎合してみようとしたり、逆に孤高の人間を目指してみたりしてそんなことになっています。
そんなことを何度も何度も繰り返しています。
自分で改めて書き直すのも少し変な感じがするくらいに慣れた話でもあります。
萎縮したような状態で人と係わるよりも、全力で駆け抜けて顔から地面に突っ込むくらいのことをするべきなんでしょうね。きっと。
相変わらず、そのくらい潔く時間を使う術を身に付けようともしていません。
僕が羨んでいるリア充の連中(あくまでリア充の一部)はおそらく、何か失敗しても大丈夫なように自分を作っている……のでしょうね。
下手なことでも全力でぶつかっている、はずです。
お高く留まろうだなんて誰も思っていない、と信じています。
最後に得/損するのは自分であるのは一切変わりません。ならばどうするか。
なかなか辛いものです。
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厄日ウィークの最中、来年の教育実習の申請を母校に提出してきました。
以前から研究職に進むか、教職に就くかどちらかでかなり悩んでいました。
純粋に数学をもっと知りたいという気持ち、こいつらに勝ちたいという気持ちが結構あったのでした。
一方で、塾のアルバイトで人生を背負うこと、子どもたちの人生を形成する一端を担って、その遣り甲斐と難しさにも魅力を感じていました。
それがずっとせめぎ合っていました。
しかし、この前の金曜日に母校に電話をかけたとき、何かがぶつんと切れて吹っ切れたような気がしました。
今まで抑えていた、教員になりたいという側にメーターの針が振り切れた感じでした。
ただ10分程度の申し込みでここまで心が決まるとも思いがけない話です。
その後、母校に久々に行ってきました。慣れないスーツで挙動不審さは否めません。
自分の学力では、研究職を目指したとしても途中で挫折するか壁にぶち当たるかで、結局中途半端に終わってしまいそうな予感がしていました。
それはずっと気にかけていた話です。先輩や先生の後姿を見る度にそう思っていました。
仮に大学院の入試に合格したとして、そこからどう生きよう?
結果が出るとも分からない、そんなあまりにリスクの高い賭けだと感じ始めてしまったんですね。
(自分の夢を支えるだけの気力が薄れた今、リスクの高い賭けに自分の中でしてしまった時点で、既に負けているのでしょう)
ならば潔く、無理をしない範囲で幼い頃からの夢を追求するべきだと判断しました。
自分が今まで学ばせてもらったことを回顧して、自分の周りの人たちに恩返ししたいと思う気持ちをずっと抱えていました。
確か小学6年のときだったはずです。その時の恩師のお陰です。
そんなことを思い返しつつ、自分が数学を学び始めたターニングポイントとも絡めながら、思いをぶつけてきました。
実習を受け入れてもらうキャパシティが狭いのは重々承知していました。
一番損をするのは生徒であると、何度も聞いて知っていました。
しかし、自分が教育に携わる以上、損失をリカバーするだけのことをやるしかありません。そこで尻込みしていては誰に対しても失礼です。
悩んだ結果、きっかけで劇的に変わったとはいえども、自分自身の進路を確かめてそう選んだことには相違ありません。
それは不安だろうけども、この目標を抱える上では胸を張って生きなければと思っています。
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なーにがほぼ週じゃ。
というのも少し許してほしいのであります。いつものこととか言わない。
思えばこれまでずっと、大体2ヶ月くらいでいろいろ中断したりしてのっそりと続けることが多かったんですよねェ。
中断の原因もたいてい、人生の岐路とか言えば納得してくれるんじゃないかという感じのものでした。中学時代は色恋沙汰、高校時代は定期試験だったり。
大学時代の今は身の振り方であったりします。とまれ、それは後の話として置いておきます。
今回は厄日のお話。
5月の終わりに差しかかろうとする週に、突然厄日が発動したようなのでした。
発端は何だったかなぁ。幾何学の講義に出たあたりからなんか変な気分だったような気がします。
その後の演習の授業でノリで行けるかなと思って挑戦したら、連続性と全射を混同していたようなよく分からない状態に陥って、非常に情けない姿を晒してきました。
一種パニックだったような気すらします。本当にどうかしていました。
帰りがけ、名駅そばのアニメイトでいぬぼくとマギの新刊とはたらく魔王さま! を購入、レジで「はたらく魔王さまのカバーは要りません」と言うはずだったのに何故かいぬぼくと言ってしまい怪訝な顔をされました。後で大失敗したことを悟り、確認してみると一通りカバーを付けてくれていました。気が利く店員さんでした。
おそらくその木曜日が突然の山場だったと思います。今は徐々に回復しております。
しかし、これほど「何をやってもろくでもないことにしかならない日」というのは初めてでした。
久々に心の根っこがごっそり折れた音がしました。鮮やかに。
事を無事に済ませたいのに、全てが裏目に出てしまって結局嫌な目に遭うか、誰かに迷惑をかけるか。
自分が嫌になるしかありませんでした。
そんな中でもアニメイトの店員さん然り、帰りの電車で携帯がポケットから落ちたのをすぐに教えてくれたお姉さん然り、温かい心を持つ方にも出会いました。
心がずたずたになってる最中にこんな温かさに触れると、こちらの方までじんわりと胸が熱くなるものです。
棄ててしまいたい世の中で出会った捨てたもんじゃない場面、これは果たして厄日なのか、それともささやかな温かみに触れられた幸せな日なのか。
まだ現状、あまりが運が向いていないような気がしています。
そんな今なら、ある意味幸せな日だったのかもしれません。どこかもやっとするところはありまするが。
本当にささやかな親切でもこういうふうに作用する例もあるのだなあとも感じました。
とは言いつつも、素直に親切ができない小さな自分であります。
2013/06/30 まとめて更新すればいいってもんじゃない
2013/06/30 (Sun) 20:51:18
2013/06/03 戻りたい気持ち
2013/06/03 (Mon) 09:58:41
2013/06/03 自分が嫌いになること
2013/06/03 (Mon) 09:48:10
2013/06/03 身の振り方
2013/06/03 (Mon) 02:41:32
2013/06/03 厄日のこと
2013/06/03 (Mon) 01:53:59
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下の記事でも大人という言葉を使いましたが、成長する度に「大人」という言葉が遠ざかっていきます。
その心。小学生や幼稚園児の時の自分から見たら、今の自分(20)は充分大人だったと思います。
当時は、自分の親世代の人を「大人」と認識していたような記憶があります。
(ただ、たとえば教育実習生のお兄さんお姉さんたちのような世代をどうやって認識していたのかよく覚えていませんが)
成長するにつれて、肉体的にはその人たちに追いつこうとするわけです。
それで教育実習生のお兄さんに近づいてきた今、自分が大人かと問いかければ、決してそんなことはないと思います。
幼い頃には幼い自分の対比として「大人」という言葉が自分の辞書にありました。
ある意味それは今も変わっていなくて、自分はまだ幼いままで「大人」の対象年齢が上がっているのかもしれません。
同時に、今は「大人」を「社会における適切な存在」として使っている節もあります。
それは多分、無意識的に自分が不適切な面も持っているからこう言い習わしているのでしょう。
いずれにしろ、大人という言葉が相対的な概念であることには間違いなさそうです。
どんなに年を取れども遠ざかる存在が大人、理想形の姿の投影と言っても過言ではないのかもしれません。
大人になりたいです。……と言ってしまえば簡単ですが、大人って一体なんなのでしょう。
#哲学
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最近専門書くらいしか活字に触れる機会がないことに危機感を抱き、前々から買ってはいた〈古典部〉シリーズを読んでおります。
第3巻の「クドリャフカの順番」をつい先日読了しました。
アニメで一通りは見たわけですが、その中でも第3巻のストーリーが一番好きですね。
第2巻は映画の中身がちょっと想像に難かった印象。アイディアはとても好きなんですけれども。
学校祭で起こる十文字事件と同人漫画を巡る思わぬ接点。
その出来事を巡る古典部の活躍と人間模様、というのが要約となるでしょうか。
その実、結構あっさりとした一面もあり読みやすい(読み応えが弱い?)です。ミステリー、というよりも群像劇です。
古典部部員の個性が極まっているそんな一連のお話になっています。
4人の背景で一番共感を得たのは伊原と漫研のゴタゴタのストーリーでした。
世間の流れに逆行すれば孤立してしまう、しかしそうしないわけにはいかない性分は深く頷けます。僕はそんなに攻撃的ではないですが。
それも意地悪とか悪意とかではなく、純粋に漫画を愛しているからという理由に惹かれます。
「夕べには骸に」に心酔するが故に対立してしまう(実はそうではなかったり)姿は格好いいなとさえ思います。
こだわりを突き通す姿を自分も見せたいですが、そこまで意志が堅いわけではなかったり。
彼女くらい心臓を刺す寸鉄を持ちたい限りであります。
その寸鉄も、実は脆い心を守るための武器だったり。
弱いから武装するのは特に珍しくも無い話です。実際そういう人は結構知っています。
でも、結局武器を持つにもそれに習熟していないが故に結局稚拙になってしまう。
そこら辺のアンバランスさが非常に好みでありました。でも現実で相手するのは苦手かもしれない。
高校生の時の、大人になるかならないかという微妙な心の揺らぎが好きです。
大人になりたい、でもまだ子どもとして主張していたいといったような。
僕にとっては部誌を発行することすら大人の真似事みたいでとても心躍りましたが、彼らもそんな感じなのでしょうか。
今は「遠まわりする雛」を読んでいる途中です。
高校時代の断片的ではあれどもキラキラしたものを再び思い起こしつつ、遠い目でどこかを見ているところです。
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今度は身近な桜の話。
今日・明日と春の大嵐になるようなので近所の写真を大急ぎで撮ってきました。
と言っても昨日の夕方頃なのであまり色が映えないですが。
本当はもう一本、古木の桜があったのですが数年前に根本が腐っているから、と伐られてしまいました。
手入れがなされていなくて晩年は確かに元気が無い感じではありました。
が、個人的には物心ついた頃からあった光景だったので、心に大きな穴が空いたような寂しさがありました。
うーん。世の常とは言えども。
それから、高校2年の締めの打ち上げの帰り、別の場所で見た桜も強く思い出に残っています。
何かと激動の高2時代が終わるのだな、と思いつつふと見えたのが、宵闇によく映えた桜でした。
楽しかったなとふと振り返りつつ。
その日は確か4/1で、帰りに寄ったカラオケで歌った「ギブス」で
また四月が来たよ 同じ日のことを思い出して
と意図せず熱唱してしまったはずです。
偶然に友達と顔を見合わせた瞬間は単に驚いていただけでしたが、今思い返すとほろっと来ます。
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去る3月29日に青春18きっぷの有効活用とひきこもり解消の一環で桜を撮ってきました。
一つは名古屋市瑞穂区の山崎川です。
山崎川と言えば宮地佑紀生さんの名曲。というよりラジオで山崎川のことを知ったのはこの曲のお陰でした。
ソメイヨシノはバラ科の花だと知りました。
名城線の瑞穂運動場東駅から歩くこと約5分。
傍の運動公園の桜も7分咲きに、瑞穂運動場を横目に見ながら、それだけでも楽しめるほどに綺麗に咲いています。
そして山崎川に着くと、詩も自ずと浮かんでくるだろうなという景色で御座いました。
夜からライトアップがあるということを小耳に挟んでいましたがそれは泣く泣くスルー。
新瑞橋駅が思ったよりも近くにあるらしいのでそこまで川沿いに歩きつつ花を愛でていきました。
途中に真っ赤なツバキが咲いていたのでこれも撮ってみる。あまり伝わらないかなー……と思いつつ悔しい思いをしています。
右のショットは夕焼けモードがいい感じの雰囲気を醸し出していると思っているのでなかなかお気に入りです。
途中、子どもたちが公園で遊んでいる光景を目の当たりにしてそれだけで何かノスタルジックな気持ちになりました。
本当に最近はこういった光景をほとんど見ないせいでしょうか。
特に名古屋市内でそんな姿が残っているとは思ってもいませんでした。
こういうスペースこそ必要な気がします。
運動不足とか科学的統計的何だとかいう前に直感的に求められていると感じます。
さて、次は岡崎の桜祭りに行きます。
JRを使わなきゃ意味が無いです。青春18的な意味で。
東海道線の特別快速豊橋行きで約30分で岡崎駅、愛知環状鉄道で約6分で中岡崎駅です。
愛知環状鉄道ってJRから直接乗り換えられるのに青春18使えないってどうよ。仕方ないけども。
で、中岡崎駅について早々に迷う。岡崎城を目印に、と思っていましたが見えるのは煌々と光るラブホ。
閑静な住宅街のど真ん中にどうよ。
ごくわずかな人の流れについていけばどうにかなるかな、と打算的な考えでうまくいき、乙川の河川敷に到着。
到着当時は「すげえ!! めっちゃ綺麗!!!」と感動して撮りまくっていましたが8割以上がピンボケでした。
家で確認したところ涙しか流れないほど無駄撃ちが多いのでした。夜景はもっとちゃんとした装備にしないとダメですねェ。
なので文章で表現してみます。
乙川はしっかり舗装・整備されていて河川敷公園としての役割も持っているような印象です。
すぐ傍に岡崎城もあって、日本的な情緒にあふれる景色になっています。
当日は桜祭りで所狭しと屋台が並んでおり、ライトアップもなされていて、自然とうきうきするような場所でした。
しかも川沿い一帯がそんな感じに賑わっており、お花見祭としてとても素敵な雰囲気に包まれていました。
ただ、地域のみなさんや家族連れ、会社かサークルかの宴会が開かれていて強いアウェー感を抱いてとても悲しかったです。それでも耐えるぼっち魂。
貴重なショットです。桜ほとんど撮れてなかった。
願わくば昼間にもじっくり見たかったところです。
日中には日中の魅力がありそうですが、それはまた来年の楽しみになってしまいました。
今回は満開ではなくて7分のあと一歩という感じが多かったのですが、その方がむしろいっぱいに咲いている様子が見られて結果オーライでした。
花粉症で酷いことになったのは置いておいて、よい花見旅でした。
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動画サイトでよくある「○○してみた」という動画、あれのキャプションに「下手ですが云々」「ミス多いですが云々」言ってるのって何なんでしょうね。
謙遜なのか、予防線なのか。聴いてみたら実際に作り込みが甘いし何なのって気分です。
今や、表現者として何かを発信しようとするならば容易にできる世の中です。
私だってそうです。曲がりなりにもなんやかんやこうしているわけですからね。
それならば、曲がりなりにも受け手に対して敬意を払うべきでしょう。率直に言えば視聴するに値するものを提供することです。
拙い、作り込みの浅いものを提供するなんて論外でしょう。
結果がどうあろうと、丁寧に作り込んだ自分のベストの品をお出しせよ、ということです。
この考え方の元は大学で某先生が「答案をどこまで書けばよいか」ということで独白していらっしゃった話です。
「知的生産の結果が"答え"なのだから、お客さんにお出しできる形で提供しなさい。
それが知的生産をする者の義務であろう」
これを聞いた時ああ、とすっと腹に落ちた感じがしました。
必要とされるラインまでは丁寧にフォローできる返答を行うということです。
そのラインを見極めるのが難しいのだ、という反論は置いておいて。
できる範囲で十全のことをしておくのは当たり前だと思います。勉強なら尚更、趣味でやるにしても殊更。
丁寧ならば上手、とは必ずしも言えません。
が、丁寧ならば努力の欠片やそれに準ずるものが必ず見え隠れしています。往々にしてそんなものです。
小学生の頃にも言われた言葉、「下手とか関係なく、丁寧に書きなさい」。
確か書写の硬筆の時間でした。
心を働かせてちゃんとその言葉通りにしている人は上手になるような気がする字を書いていました。
結果は問わない、はずなのですが、そこまでの心意気があればおそらく拙いものは提供できないはず。
提供していたらそこまでの人だということでしょう。
で、そんな不十分な心意気で作ったようなものを検索に引っ掛けないでほしい所です。
「下手だから上げるな」、ではなく「もうちょっと頑張ってみろよ」と言いたいわけですが、伝わっていなかったら申し訳ない。
少なくとも僕はそういう気持ちで創作活動しているつもりです。
2013/04/25 相対的語
2013/04/25 (Thu) 01:50:39
2013/04/25 私マジで気になります
2013/04/25 (Thu) 00:18:23
2013/04/06 続・桜花
2013/04/06 (Sat) 11:42:57
2013/04/05 この7分咲きの桜を
2013/04/05 (Fri) 15:31:04
2013/04/01 表現者のプライド
2013/04/01 (Mon) 23:55:37
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