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        アスファルトと礫 




 彼にも昔、仲間が居た。唯一無二の仲間。友達。親友。同胞。
 仲間に飽きたわけでも何でもない。のに、仲間は彼の指の隙間を縫って、消えてしまった。
 夕日が必ず西の空に沈むように、ごく当たり前のような顔をして消えてしまった。

――

 ふと顔を上げると、見慣れてしまったある高校生がいた。紺色のブレザーを折り目正しく着て、鞄を重そうにも軽そうにも持たず、澄ました顔で立っている。
「やあ、こんにちは」
 イオリは小ぶりのレンチをコンクリの床の上に置いて額の汗を拭った。
「どうも」
 高校生の彼は無感動にこちらを見下ろしている。イオリはにっこりと表情を緩めて、
「今日はどんなご用件で?」
 分かりきったことを伺う。
 イオリは薄鼠青の作業着を時々機械油で汚しながら、バイクの点検を行っている最中である。少し肌寒くなってきた秋中頃だが、作業は運動のようなものである。感覚と筋肉をフルに使っていれば、全身もしっとりと湿気を帯びてくる。
「儲かってるか」
 それは客たるサクの目にも明らかで、イオリの姿は誠心誠意、という言葉がぴったりであった。
 要領よく部品を外し、道具を操りながら本体の健康度を判断する。その姿は手際よく、若いながら鮮やかなものである。信頼に足りうる医者と患者の診察の様子に形容してもいい。イオリの柔和な表情は誰もを惹きつけ、バイクの不調を鮮やかに解消していく。また、その持ち主や客に対しても同じで、
「誠心誠意、診させて頂いています」
 笑顔がキラキラとした長身の好青年が一生懸命応対してくれるのだ。些細な不満や不調など、大抵のものはなくなってしまうだろう。サクは自分自身の無感動な性質とつい重ねあわせて、彼との距離を測ってしまう。
「違う」
 サクはつい、イオリから目線を外す。
「お客さん、お茶でも飲んで行きませんか」
 イオリは目を細め、サクを事務所へ案内する。――ここまで、ごくありふれた彼らのやりとりである。
 顔に表情を表さないサクは、高校が終わるとほぼまっすぐにこのバイクショップに来る。イオリが働いているこの店は繁華街から少し外れたところにあって、古びたトタンや色褪せた看板が目印になっているこぢんまりとした場所である。
 外気温二十度、日の落ちかけた午後四時過ぎ。町外れの小さなバイク修理屋に、冬の匂いが少し混じった風が吹く。イオリは車体をボロ布で磨きながら、季節の過ぎる過程を肌で感じている。


 事務所に入ったサク。店長である壮年の男にいらっしゃい、と声をかけられる。サクは目を合わせてから軽く頭を下げ、ソファに通される。店長は彼を案内すると帳面を持って、店の奥に行ってしまった。
 サクも勝手知ったるもので、なんの遠慮もなく腰を静かに下ろす。長年様々な客を座らせてきたソファは少し軋みの音を立て、サクを迎え入れる。サクはまるで自分の部屋で宿題を始めるように、ごくごく自然にノートとペンケースを取り出した。
「……どうぞ」
 物理の問題と睨めっこしていると、左斜め上から低い女声が聞こえた。
「ありがとう」
 声の主も淡々とした様子で、勝手知ったる客に茶を渡した。グラスには七分目まで、常温の麦茶が入っていた。サクが受け取るや否や、彼女は盆を持って下がった。
 彼女もサクの顔見知り、リズ。この店の事務方の仕事を手伝っているらしい。彼女の特徴は手際の良さ、歯切れの良さである。何においても成すべきことを最短距離の行動で解決させる。この店の正社員というわけではないが、必要なときに助っ人として参上するらしい。店長にも気に入られているようだ。
 サクはペンを動かしては止めている。時々紙のこすれる音と、黒鉛が削れる音がする。他には、断続的に響く金属音だ。イオリの作業も本丸を攻略したところまで差し掛かっていて、残るは部品を元通りに組み立てるだけである。熱心な眼差しを向けてバイクに愛を注ぐ様子は、漏れる息の熱さからもよく分かる。後は時計の秒針が規則正しく盤上を一周する音か。
 さしあたっての目標は、宿題を終えること。明後日提出であるものの、やれるのなら今すぐにでも終わらせておきたい。下らない練習問題などに注意を向けていたくはないのだ。そういうところはリズとサクは似ている。
「……」
 もっとも、リズは課題の途中でペンを止めるようなことはしないだろうが。サクはあまり物理が得意ではない。模式図を描いてみたはいいものの、そこからどうしていいかがいまいちピンときていない。
 書類整理の合間に横目で様子を見るリズは、まあ頑張りなさいと視線を送る。少し余裕のない真剣な表情は珍しいと思う。サクはそういう、ちょっとした優秀な子である。

「五時……」
 宿題を残り二題のところまで追いやったサクは、そろそろ疲れて切れかかっている集中を時計に向けた。まもなく五時。事務所内は蛍光灯が点いているものの、物の多さや年季の入った壁のせいで仄暗さも漂っている。
 サクは鞄の中からケータイを取り出す。メールは届いていない。そろそろ心当たりのある人間から来るような気がしていたが、今日は何かあったのか。
「今夜は一緒にファミレス行こう」
 静かな事務所とガレージに、サクの声は響いた。静かな水面に小さな礫を落としたようにそれが広がって、イオリとリズは手を止めた。サクに二人の目が向いた。サクはイオリにアイコンタクトを返し、それからリズの視線に自分のそれを返した。
 しばらくそのままの状態が続いたようで、実際はあまり時間は止まっていなかった。ぴんと張った糸をたるませたのはイオリだった。
「一緒にって、誘ってるのかい」
「ああ」
「そんなにじっとリズの方を見つめてさ」
 誘っている、という言葉に「お食事の」という枕詞を足して考えていることに気付いた他二名は顔をそっと背けた。
「サクも色気づいてきたのかなと思ってね」
 イオリはサクを見つめながらくすくすと笑っている。一方リズはにべもなく、
「いいわよ」
と返す。その気がある様子は全く無いようだった。リズの答えにますます面白くなったのか、イオリは更に笑いをこらえながら残念だね、と言った。
「まだ」
 一方のサクはそんなこととは裏腹に、床に目を落としている。ケータイの画面はとっくに消灯している。
「俺にはわからん」
 ぼそっと吐き落として、サクはケータイをしまってペンに持ち替えた。
「四人で行こうね」
 イオリは床に転がったサクの一言を耳に残しながら言った。リズはええ、とだけ言って机に手を伸ばした。奥から店長がイオリを呼ぶ声がして、それから再び店の中は静かになった。
「ここは勉強が捗る」
 サクは頭のなかで呟いて、数式を並べ始めた。


 その後、サクのケータイに
「一昨日の取引のことは説明する」
とだけ書かれたメールが届いた。差出人がイオリであることを確認し、サクはケータイを閉じた。


 夜七時二十四分、県道の高架橋の下。
 周りにあるはずの外灯も、そこを通る車のライトも、不思議とすべてが吸い込まれて無くなってしまう。意識しなければ見えない、橋脚の陰にかたまる黒い部分は照らし出されるものではない。秘かに気配を隠している者がそこに、一人。
 黒いパーカーのフードをかけ、そのつややかな黒髪までをすっぽりと覆っている。下は黒のスラックス、スニーカーも黒。黒尽くめとはこのこと。彼は意識的に自らを闇に包み込ませて、気配を消している。三白眼の先には、自動車の黄ばんだライトに照らされるだけのアスファルト。それはもう、サクの隣では黒には見えない。

 ふと、目線を地面から外す。
「よお」
 と言いたげな目線を送るイオリだった。彼もまた、黒い革のジャケットを羽織り、全てを黒に捧げている。高架橋のトンネルの終わりに堂々と立っており、その後ろからはスポットライトのような強い光が支えている。
 イオリと言っても、違うのはその佇まいである。昼間、ガレージで見たような優男がそこにいるわけではなかった。髪を後ろに流し、鋭い鷹のような眼光で目標を見つめる、ハンターのような男だ。それでも彼はイオリであって、たった一つの魂を持つ人間である。
「時間通りだな」
 とサクも目で合図を送る。そしてその奥、イオリの影法師のように凛と佇んでいる。彼女は事務所の時とそれほど変わらないだろう、イオリと揃いのジャケットに袖を通し、全てを見透かすように底にいる。
 三人は互いを確認し合った後、肩を竦めたり苛立ちを少しにじませたりする。それは時間通りに来ない、四人目の仲間の存在を表していた。

「ごっめーん!!」

 コンクリートで四方を閉ざされた空間に、高い男性の声が響く。ボーイソプラノとまでは行かなくても、中性的で鼓膜に直接伝わる声であることは間違いない。彼はイオリのいない方のトンネル口から走ってこちらにやって来る。彼もまた、黒のウインドブレーカーを身にまとっている。
「いつもおせえんだよ」
 イオリのくぐもった声。日中の声とはワケが違う、暗がりを集めたような声音である。
「やーごめんごめん! やーっと免許がとれたんだよ。嬉しくてそこら辺を走り回ってたらこんな次官になっちゃってね、でもここに集まるなら一旦帰らなきゃいけないからそれで時間食っちゃったんだ、いおりんにも見てもらったあのバイク凄く乗り心地良くって」
 得意気に語りだす彼はシノという。他の三人が寡黙を背負っているとしたら、シノはそれらを放り投げて奔放に走り回るような青年である。
「……うるさい」
「あ、それで、これが免許書だよ」
 重たいリズの呟きをも気にせずシノは屈託ない笑顔を浮かべている。ズボンのポケットから財布を取り出し、カードをまさぐっている。暗がりの中でこれは違う、と繰り返していると四枚目に免許証があたったらしく、さらに目を輝かせて三人に向けてそれを掲げる。
「ほらほら! 写真もいい具合に写ってるっしょ?」
 純真な眼差しから逃げるようにイオリとリズは目を外す。なんだよもう、と口をへの字に曲げるシノに、サクは柔らかく声をかける。
「よかったな」
 シノは一瞬表情を止め、サクに釘付けになる。サクは表情を微動だにしないながらも、後ろ側に優しく笑っているように思えるのは気のせいではない。シノは氷が溶けるように表情が緩み始めて、
「さっく」
 サクの胸に飛び込むように駆け出す。しかし実際はサクの方が若干身長が低いため、結局は抱きしめる形になる。
「さっくだけだよ、俺を認めてくれるのはぁ」
 さっくだいすき、などと愛の言葉を繰り返す様を外の二人は特に見向きもしない。苦しいほどに抱き締められている当人のはずであるサクはまだやはり、無表情のまま受け入れている。

 ひとしきり感激した後、シノははたと気付いて、
「そう言えば、今日はさっくが誘ってくれたんだよね?」
 と身体を密着させたまま問いかける。呆れていた二人はようやく思い出したか、と言うように歩を進める。
「ああ」
「今夜は何やるの?」
 シノはさっきまでのとろりとした瞳の陰に、鋭い光を潜ませていた。いつの間にか少しだけ上がった口角、唇の隙間からは八重歯が覗く。ただ彼自身、自分の表情には気づくことはなく、無邪気な笑顔は変わらない。
「それは」
「それは店に言ってから話す、こんな喧しい場所じゃおちおち話もできん」
 上半身を強くホールドされて潰れかけたサクの声に被せて、イオリが煩わしそうに声を上げた。しびれを切らしたようにサクからシノを引き剥がし、軽く脛を蹴る。
「あいてっ」
「イチャイチャするな」
 その上シノの額にデコピンを、しかも大きな一撃を食らわす。
「痛いよいおりん……」
 涙が滲んでいることなどお構いなしに、イオリは身体を翻して外に向かう。リズは彼の向かう方向をさっと確認すると、すぐにその背中を追って歩き出した。凛々しい後ろ姿の隣に、筋の入ったように伸びる背筋を見る。二人の革のジャケットに車の前照灯が当たり、舞台の上に差し込まれるスポットライトのようである。
「前に言っていた連中が少しだけ吐いたことと、あとはサクが掴んだ話をする」
 少し遅れて、サクが軽いながらも早い歩みで二人を追う。パーカーは光に映えないものの、サクの小さい姿はすぐに周りに溶け込んで見えなくなりそうになる。シノは慌てて駆け出そうとする、が、
「お手柄じゃん、って待ってよ!」
 思い切り蹴られた脛をかばいながらしか走れない。前の三人はあっという間に、トンネルから五つ目の街灯の下まで移動していた。普段からただでさえ、夜の街を渡る足さばきは優れている三人。身体を少しふらつかせているシノにはつらい。
「ちょっとちょっと、待ってってば!」
「さっさとして」
 リズが後ろを向いて口を動かしたのだけが見えた。繊細で鋭い声は無粋な車たちの運転音でかき消されてしまう。そして、聞こえない声を拾おうとしている間にも距離は大きくなる。三人を追い駆けるシノをちらりと後ろに見るサクは、パーカーに手を突っ込んでから前を向き直す。それからふん、と鼻を鳴らす。


「今夜は随分とご機嫌だな」
「お前にはそう見えるのか」
 イオリの着るジャケットが微かに革の軋みの音を立てる。右腕を大きく回して、軽く首を回す。
「そりゃあもう」
 表情をあらわにしない、いや自分自身理解していないサクの左には、今夜を楽しみにしている二人が笑っている。何も起こらないはずがないように思えるその横顔。そして、ようやく後ろから、
「さっく! 楽しい夜にしようね」
 底抜けに明るいシノが追いつく。
「てめえは少し黙ってろ」
「いおりんも! リズりんも楽しもうね!」
「楽しい夜だといいわね」
 サクは街灯の向こう、交差点の方を遠く見る。林立するビルの後ろ側から覗く月、薄雲がかってはいるが、どうやら立待の月らしい。黄昏時から顔を覗かせるはずの月である。横目で、互いに容赦しない彼らの言動を少しだけ見て、それから再び空を仰ぐ。
「楽しい夜」
 なんて以ての外、ただ見渡すだけの空に漂っていた夜もあった。指の隙間から消えてしまった遠い友人を思い返せば、そんな夜ばかりだった。だが今は、
「そんな夜だといいな」
 繁華街の闇の中で、仲間が三者三様に笑う。





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