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        角切りなカレー



――
「想」と書いて「さとる」と読ませる。それが彼の名前だ。主人であるなつみが初めて彼に贈った唯一無二のプレゼントだった。なつみはペットも、たまごっちでさえも飼った事が無かったが故に、初めてのパートナーには、凝った名前ではあったが、躊躇無く付けた。友人からは賛否両論あるが、なつみはこれが彼に相応しい名前なのだと確信していた。



――
 人間に仕える身ながら、人間というものは複雑だと負の感情を抱えるときがある。想は洗濯物を畳みながら考える。
 犬には、餌をやれば喜んで食べる。待てと言えばぴたりと動きを止める。おおよそ、機嫌が悪いときを除きさえすれば、一対一の理論が成り立つ。だが人間は違う。食事を出しても食欲が無くて全く手を出さない時もあれば、出すや否や食らいつく時もある。待って下さい、と言ってもその時々で行動が変わる。人間にとっては、AにBを加えるとCになることもあれば、Dにも、ゼロにでもなるのだ。「難しい」という言葉でまとめればよいのだろうか。
 従順な犬がステンドグラスだとしたら、人間は万華鏡。光の加減が同じでも、見える色は全く違う。
 想は窓の外の曇り空に目を遣った。時刻は三時を回ったところだった。もうすぐ天気予報通りに雨が降るだろう。


     *     *     *


「ただいまぁ」
 玄関からなつみの喜んだ声と物音。聞けば、紙袋やビニール袋の擦れる音と、駆け足でこちらへ向かってくる音。想は薄手の上着を畳む手を止めて見上げた。と同時に、なつみが微塵も疲れを見せない表情でやってくる。
「お帰りなさいませ」
 想はただ慇懃に、軽く頭を下げた。
「ただいま」
 なつみの返事は弾んでいる。嵩のある手荷物をもあまり気にしない勢いだった。
「ほら見て、こんなに買って来ちゃった」
「また服、ですか」
「やだな、ちゃんと食べ物も日用品も買ってきた」
 なつみの提げている袋は、一般的に「買い物」と言った時の量よりも随分と多かった。彼女の明るい声とは裏腹の想の声は、冷静にその状況を端的に捉えたのだった。
「ほら、これ。前行った時から欲しかったの。で、これとこれは少し高かったけど、すごくかわいいでしょ?」
 想は、次々と紙袋から衣類を出すなつみの素早い手つきを目で追っていた。テンポよく床に並べていく光景はある意味、鮮やかでもあった。少し主張が強い形のジャケットや、対して地味ではあるけれどさり気無い意匠が光るスカートなど、十点ほど。一気に並べると華やかな世界が広がっている。そしてそれは、彼がさっきまで整然と畳んでいた洗濯物が成していた光景とはまるで真逆だ。
 なつみは、紙袋から最後に一枚のエプロンを出した。
「……で、これがね」
 青を基調とした無駄の少ない形のエプロン。なつみが床に並べていった服たちとは対照的な、非常に機能的な印象を持たせる。一息で言ってしまえば、クールという言葉でまとめられる代物だった。
「これが?」
 想はなつみが両手で広げたそのエプロンを注視した。なつみは、先ほどまで自分の服を展開していたときよりもずっと、きらきらさせた目で想を見つめた。
「想の、エプロン」
 はしゃぐような様子ではなかった。むしろ、改めて確かめるように言葉を運んだ。
「私のエプロン、ですか」
「うん。料理を作ってくれるなら、それなりの格好をするべきよ。……ほら、立ってみて」
 想は言われるまま、その場に立ち上がる。長い間正座していたはずの無駄のない脚は、寸分もしびれている気配はない。
 なつみも立ち上がり、エプロンの肩紐を想の肩まで持ち上げる。自然となつみの目が上目遣いになる。想のエプロン姿は――すぐ近くにいる分、全体を見渡すことはできないが――丹念に作りこまれた一つのガラス細工のごとくパーツが調和して、とても端麗だった。
「……うん」
 なつみは思わず息を呑む。
「買ってきてよかった」
 次に紡ぐ感想もしっとりとした色を含んでいた。
「そうですか? 私が着ていても仕方がないですよ。折角のものならば、なつみ様が」
「そんなことはないわ。とても似合ってる」
 想は釈然としていなかった。何かしらの、グラス半分程度の罪悪感を背負ったような表情で、ただぽかん、と無垢な瞳を晒していた。
「今日から、これを着て料理するように」
 ね? と、なつみは人差し指を想の唇に当てて動きを封じる。主人の命令ならば逆らうことができない。想は呆然と立っている他無かった。
 しばしの無言を含んだ後、想は口を開いた。
「はい」
 その一言で、固まった時が再び動き出す。なつみはにっ、と笑む。
「よろしい」
 おどけた様子でなつみはエプロンを手早く畳んだ。折り目はむしろ想よりも正しくついている。
「……それじゃあ、この服を片づけますか」
 畳んだエプロンを渡し、なつみが息を吐いた。改めて見る部屋の光景は、当然のことながらかなりの散らかり様だ。理知的な想の整理が行き届いているはずの部屋が、なつみの本能に従った配置で服が置かれて散らかっている。
 なつみは少しだけ思いあぐね、想の顔を見た。
「…………」
 想は何も言えないなつみの横で、同様にただ部屋の惨状を見ていた。



 なつみが買った物はもちろん、服ばかりではなかった。日用品や雑貨、そして今日の献立の材料。
「今夜はカレーにしようか」
 テーブルの上にタマネギやニンジンなどの野菜を初めとする、カレーの典型的な材料が並べられている。
「カレーの作り方は分かる?」
「いいえ、分かりません」
 想はきっぱりと即答する。潔い。
「……まぁ、そうよねぇ」
 なつみはルーの箱を取り、裏にある説明を見せてみる。至って典型的かつシンプルなカレーの作り方だ。『具材を炒め、水で煮込み、ルーを入れてさらに煮込む』……と、骨子をただまとめた簡単なレシピだ。
「ここを見て作れば間違いないわ。初めて作る想でも、きっとね」
「…………これなら十分に作れます」
 想に箱ごと渡すと、彼はその説明を凝視し始めた。この調子なら焦がしたり、おかしな味付けをしたりすることも無く、おいしいカレーが作れるはずだ。
 なつみは一度だけ、想に料理のメニューから何から全てを一任したことがある。彼がこの部屋に来てから間もなくのときだったから、お互いを知らないこともあったと思う。想がなつみに尋ねることも少しばかり憚られたのかもしれない。しかし、なつみは想が料理程度で悩み出して動きを止めてしまうとは思っていなかった。
「……ちょっと、想?」
 なつみが肩を軽く触ると、彼はばたん、と直立不動のままで倒れた。何の比喩でもなく本当に直立不動のままで倒れたのだから、なつみは驚く前に呆然とするしかなかった。
 それ以来、想には必ずレシピを見せて頼むようにしている。さもなくば彼の頭脳――もとい心臓部は止まってしまう。頼んだ他の家事は完全にこなしてもらえる分、こちらもある程度すべきこともあるのかな、となつみは思った。
 今となってはそんな光景も見る影も無い。おそらくは。
「それじゃあ、任せていい? わたしは服の整理をするから」
「承知しました」
 想は頭を下げ目でも頷き、体の向きを変える。早速まな板を食器乾燥機から取り出そうとしていた。なつみはその動きを制す。
「……料理をするときは」
 それには上目だけあれば十分で、左手で肩を掴むまでもなかった。右手にはまだ糊が張ったように緊張したようなブルーのエプロン。想は忘れていたように僅かに目を開く。
「ちゃんと着ること」
 はい、と想は同様に頷いて肩紐に腕を通す。想のごく自然な動作の中にも、洗濯糊の効いたようなものは感じられた。
「うん、似合っている」
 なつみの眼が、声が、しっかりと青の姿を映し出す。十センチ余り背の高い想が、なつみの前で凛と礼を告げた。
「ありがとうございます」
「それでこそ、想よ」
 はい、と想は整然と返事をした。硬い言葉だったが、なつみはふにゃり、と表情を崩した。腕を伸ばして髪を撫でる。なつみと同じトリートメントを使った証の甘い香りが手のひらにくっついた。



 想は一通り材料をテーブルに並べる。ニンジン、タマネギ、ジャガイモ、豚のバラ肉。なつみが用意したのは誰もがカレーといえば思い浮かべる、そんな奇をてらうことの無いものだった。
 ニンジンの両端を切り落としてから縦に包丁を入れ、断面を伏せて半月切りにする。たん、たん、と包丁とまな板のぶつかる音が台所に響く。ただ、とても軽快とは言えないリズムで。見れば、ニンジンの一つ一つがほとんど同じ体積になるように、正確に切られている。しかし想は他に道具を使っているわけでもない。目測だけで切っている。
 なつみは、その慎重すぎる後ろ姿を横目でちらりと見た。一時期はそのスピード、ひいては彼の要領の悪さをを気にした時期もあった。それは、『彼の存在』に意味が無くなりそうだったからだ。彼はそういうふうにできていなければならない、と信じきっていた。しかし、はたと気付く。違う、彼は完全な形で生まれてきたのではない、と。彼はわたしのパートナーなのだ、完全でいる必要がない。そう思った瞬間、重荷がすべて消えて、『彼』のことがいとおしくてたまらなくなった。嬉しくなってなつみは想に抱きついた。想は突然のことに疑問符を浮かべていたが、なつみは心の底から安心したのだった。なつみはふと、そんな過去の話を思い出してはにかんだ。
 想はニンジンと同じ要領でジャガイモ、タマネギ、最後に豚肉を切っていった。タマネギを切るときに涙は出なかった。
 そして、いよいよそれらを火にかける。油を引いた鍋を熱し、肉を先に焼いてからしっかりと火を通す。カレー作りの序盤ではあるけれど、野菜を入れたときには既に腹の減りそうな匂いが漂っていた。
「水を加え、沸騰したらあくを取り、材料が柔らかくなるまで弱火で十五分程度……」
 水をぴったり三カップと半分、表面張力の分を加味して測り鍋に入れる。水と油が拮抗する音がしばらく続き、そして止んだ。
 あとは十五分待つばかり。
「想?」
 ふと、服の整理の手を止めたなつみが再び台所を見ると、そこでは想が、じっと蓋をした鍋を見下ろして立っていた。声をかけると、まるで時が動き出したかのように、なつみの方を向いた。
「はい」
「……そんなに熱心に見てなくてもいいよ?」
「いえ、十五分間煮込みますから」
「大体十五分で大丈夫、心配しなくても噴いたりはしないわ」
 見れば、箱の説明書きには「約」十五分とある。煮込み料理であるし、その数字はおおよそを示す目安でしかない。しかし、想はその言葉に困った顔をする。
「はい……」
 なつみの言葉の上では、曖昧さを許した答え以外の最適解がない。想は形を保ちながらも時折揺れるガスコンロの炎にぼんやりと目を傾けている。
「心配しないで。全く平気だから」
 なつみは、想の大きな背中に体を寄せて、そっと後ろから抱きしめてみる。ぴくりと体を一度だけ揺らして想がなつみに目を移す。
 想は元々、こういう性格を持った従者だ。多少、いやなかなか融通は利かない。それを直そうとも、期待できるほどのことかも怪しい。よく考えればそれは欠点などではないのかもしれない、だから直すなど前提が間違っている上の話なのかもしれない。
 ここ数年で、ようやく一般向けにこういったサービスを安価で受けられる社会になってきた。その先駆けとしては、きっとかなり優れたものなのだろう。なつみはそんな想の、釈然としない渋い表情にささやいた。
「少しずつでいいの、一度に理解するなんてあなたにもできない」
 綱を素足で渡るような声で想ははい、と応える。それから互いの声も一挙手一投足の音まで、一瞬だけそれらが全て消えて鍋が立てる暖かいつぶやきだけが部屋に渡った。にこりと満足した表情を浮かべたなつみは、想の横髪を指先で撫でる。



 日が落ちて暫く。美味しそうなカレーの匂いが、部屋いっぱいに漂っている。
「…………」
 想は他でもなく自分自身に呟くように問いかける。
「これで完成……?」
 ルーの箱の説明書きには、「とろみがつけば完成!」とある。おたまでルーを掬い取ると、確かにとろりとした感触が伝わってくる。傍から見れば紛う事なく、完成だった。ただ、想がカレールーを持ち上げる手には変わらず染み付いた疑問符が残っている。何度も繰り返し掬い取った結果、想の中でもようやく及第点に辿り着いたようだった。
「なつみ様、」
 想はふと気付けば、完成しました、と声を後ろにかけようとしていた。しかしなつみは、クッションを枕に意識を手放していた。いつの間にかラフな格好に着替えて身体を横たえていた。
 想はルーを一滴も垂らすことなくおたまを置いてなつみの元へ寄る。あれだけの荷物を提げて帰ってきたのだ、疲れるのも無理はないだろう。
 そっと近づき、なつみ様、と声をかける。が、どこかへ行ってしまったように声は消えていった。
「なつみ様」
 仕方なく想は手を肩に置き、軽く揺する。なつみの頬がぴくり、と反応した――気がした。人なら気のせいにできるほど微細だった。
 近くで改めて眺めると、なつみの寝顔はとても美しかった。彼には形容しづらいものだった。整然としたものでもなく、清らかな印象を与えるものでもなく。どのように言えばよいのか、分からないままであったけれど、それは綺麗と言えば良いような気もした。
 想は柔らかく揺すり続けつつ声をかけた。彼にはこうするしかなかった、というよりはこうする他考えが及ばなかった。
 幾度目かようやくなつみは無意識から声を漏らして瞼を上げた。想は思わず手を引っ込める。いけないことをしてしまった、とはたと気付いた子供のように俊敏な動きで。
「ふわぁ」
 なつみは緩慢な動きでクッションから頭を離して身体を起こした。だぶついたシャツに、力のほどけた細い身体。無防備極まりない姿だ。
「あ、わたし寝ちゃったんだ……」
 ぼんやりと焦点の定まらない視線と、満足に開かない喉からの声を投げかけるなつみ。ぼうっとしていると、しばらくしてから鼻に来る匂いに気付く。
「もしかしてカレーできた?」
「ええ、とろみもしっかりと付きました」
 以前表情を崩さない想に、なつみは柔らかな笑顔を見せる。とろみ、という状態と頑なな感さえ潜んでいる想の表情との対比が面白かった。なんだか滑稽なワンシーンに思えてきてさらに力が抜けた。想はなつみの見せる表情に疑問符を浮かべている。
「そっか、じゃあ食べようか」



 白の皿に白いライスを軽く盛り、その上に静かにかぶせるようにしてルーをかける。真空パックの封を切って福神漬けを箸で六切れほど皿の箸に飾る。それを二皿分用意すると、銀色のスプーンを手前に置く。
「うん、それじゃあいただきます」
「いただきます」
 なつみの軽やかな一連の動作は、想をわずかに驚かせた。合理化された自身の動きよりも鮮やかで無駄がなかった。
 カレーは中辛の、刺激をほどほどに抑えたものだ。それが野菜にも肉にも味がしみ、加えてそれらの旨みが程よく出ていた。ライスは電子レンジで温めなおした程度のものではあったが、十分に、
「うーん、おいしい」
 なつみを笑顔にさせるほどの一品に出来上がっている。
「喜んでいただいて嬉しいです」
 想はその満足げな表情を見て、少し息を吐いた。何よりもなつみが認めてくれるようにたった数時間の中で回路をフル稼働させてきたのだから。
「初めてにしては、なかなか上出来ね」
 そしてなつみも、一仕事成して安堵する想を誇らしげに見つめた。
「ほら、想も食べて」
 慇懃に、姿勢正しく想はカレーを口に運ぶ。
 なつみはニンジンをスプーンで掬ってみる。その形は横に転がっている豚肉とほぼ同じ形をしていた。うたた寝してしまう前に見た、想の謹直な包丁の扱いが瞼の裏に浮かぶ。ほぼ全ての具材が、大きめのさいの目切りになっている様子を見てくすり、と笑いがこぼれる。想はそれを見て、疑問符を貼り付けたような表情しかできないのだった。


     *     *     *


 ロボットに「想」という字を与えるというのは、我ながら皮肉だと思う。でも、彼なら皮肉を曲げて、きっとこの字にぴったりのパートナーになってくれるはず。友人達はそれほどいい評価はしてくれなかったけれど、わたしは確信している。確信できる。
 たとえ彼がカレーの具材を乱切りに出来ず、すべて角切りのカレーしか作れなくても。





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