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        凍死する話


 俺の感覚はすべて、白に塗りつぶされていた。


 旅の最中に寂れたこの山を越えることになった。
 季節は晩秋。木から色が失われて間もない頃に俺は入山した。取り立てて特徴も何もない土地だ、俺は単に傾斜のついた道だという認識くらいしか持ち合わせていなかった。地道に上り、夜になっては休み、と二回繰り返した。三回目の朝だった。目覚めて初めて視界に入ったのは空一面の灰色だった。  ――まもなく、雪は俺の視界を蝕み始めた。
 一瞬を重ねるごとに二倍三倍と白は増してゆく。俺の心の中にも戸惑いと不安、そして恐怖が巣食っていく。今までに経験したことの無い量だった。意識を向けるともう自らの付けたはずの足跡は掻き消されている。一度目の戦慄は、文字通り俺の心を凍りつかせた。見通しに従って考えれば、途の中程を越えた所まで来てしまっているはずだった。進むリスクと戻るリスクを天秤にかければ、ここから引き返すことなどできない。この錯乱の中でも、直感として容易に判断が付く。俺は冷たいナイフを突きつけられ、白に塗りつぶされた道を進むしかなかった。
 木に背を任せて考えた。ここを越える方法。如何に道なき道を行くか。如何に雪を凌ぐ場所を探すか。考えは閃きもまとまりもしない。そう考える間にも、雪は刻々と俺の視界を閉ざしてゆく。音無く手足に迫ってくる。どうする。どうする。思考も次第に閉ざされてゆく。冷気は人の自由を奪う毒なのだ。心を冷やす。筋肉を硬くする。そうして俺は一つ、選択肢を握りしめた。思考の堂々巡りの振り出しに既にあったこと。



 ただ、進むこと。



 ざく、ざく、ざく。
 たっぷりとした雪を俺は靴で踏みしめている。擦りガラスをこすり合わせるような音を立てて雪は少し解け、間もなく凍てつく。その足の型にまた、新たな雪が収まって、振り返った時にはもう俺がつけた凹凸は見えない。というよりも、視界を白に奪われてしまってよく見えなくなりつつある。先に気が付いた時からずっと起きていたことだ。
 風は無い。従って俺の耳は靴の立てるその音と、白の耳鳴りに支配されている。真夜中に星を眺めるときに感じた、あの消えない高い音だ。どうやらあれは、意識を向けると大きく聞こえるように錯覚するらしい。実際は無い音を自ら作っているのだと、昔医者が教えてくれた。
 ざく、ざく、ざく。
 獣の皮をあしらった外套、毛糸で編んだ帽子、体に密着させた旅鞄。すべてに等しく雪は積もる。動かす腕と手のひらにも量は少ないが繊維に引っかかったものが互いを引き寄せて、次第に付着量は大きくなる。
 凛とした空気は、鼻の壁を細く切り刻むように痛めつける。息として、その冷気は喉の頭と肺をも侵す。感覚が集まる所に限って低温には弱いのだ。鈍い痛みを逃がすように俺は息を吐く。すると体温は大気に放たれ、白く逃げてゆく。
 ざく、ざく、ざく。
 俺は焦りを感じていた。ひたすら同じような光が見える今、何を標にすればよいのか。
 もちろん、枯れ木であったり地形の高低は分かる。そして、先人が作った道も分かる。それはいつまで続くのだろう。この山の中では集落の灯りは見えない。太陽、月、星座も見えない。知覚できるもの、いやそれを知覚する脳が淡くホワイトアウトしている。ぼんやりと浮かんでいる、歩かなければという信念。誰からの保証もない、闇雲な方針。その曖昧な意志だけが存在しているというのは、そこに確実さが何一つないからだ。
 幼い頃見ていた教会での祈り。俺はあいにく信心を持つことは無かったからあの人々は縁遠いものだった。
 皆が胸の前で手を合わせ瞑想する。神父という老人のしわがれた、しかし俺たちが知らないものをまるで悟ったかのような朗々たる穏やかな声に、人々は心を震わせている。学校で教師が説教を垂れるのとはまるで違う。聴く者が頭を地に付け、手をいっぱいに広げ、喜んで言葉の一つ一つを抱きしめているのだ。長い話が終わると次はオルガンの音が街いっぱいに広がる。似たような旋律に合わせて街の衆は歌うか、あるいはそれを真摯に聴いている。それが何曲かほど演奏されると、ようやく街に活気が湧く。市場の野菜売りはさっきとは真逆の、威勢のいい声で客を呼び込んでいた。
 俺は、そんな一連の風景を不思議に思う他なかった。知ることすら許されない「貴い存在」に祈りを捧げ、感謝することで何が得られるのだろう。祈りを繰り返す人々は皆、充足した晴れやかな表情で戻っていった。それは何が見えたからなのだろう。救われる――そんな、俺の感覚から浮遊した、確証のない言葉をいつも受け入れられなかった。
 ざく、ざく、ざく。



 単調な景色と音に感覚は満たされる。
 無意識に足と手が動くようになっているのが分かる。長距離走のときように長時間連続した単調な動きで負荷をかけるとなる、あの現象だ。肺に冷たい空気に触れて喉の唾液が濃縮され自然と咳が出てくる。そんな状況も何か似ていた。目の前もどことなく焦点が合わなくなっている。視界の端にも、単調でない何かの影が見える。


 何か……何か?

 未だ風無く、ただ降る雪のキャンバスに溶け込んでいないものがあった。俺は思わず足を止めた。足を止めるには意志が要った。惰性で動く身体を無理に動かしたのだ。枯れ木にもたれかかり大きな布を自らに被せて、この時を凌ごうとしているように見える。大きさは子どもくらい、明らかに俺が占める分よりは小さい。時折身を震わせるようにして雪を払ったり、体を擦っているように伺える。
 あれは幻だろうか。いや、幻でないというなら、この凍てきった禿山にいる理由は何だというのだ。家を飛び出してここまで来るだろうか。身を鍛えるためにここにいるにはあまりに幼く見える。ならば何かの怪物なのか。それとも俺に迎えが近いのか。理解できないことへの理由付けは止まらずにぐるぐると回った。それを確かめるには――。
 俺は無意識に歩をそれに向けて進めた。
 じゃく、ざく、ざく。雪を踏み固める音がどことなく違う音に聞こえた。当然か、道を外れたのであるから。
 見えたのは先ほどまで予想していたそのもの――しかし信じがたいという矛盾を体現した――小さな子供だった。



 子供は大きなブランケットのような布を体にまとわせて大樹にもたれている。食い物に集る虫のような雪と身を隔てている、しかしそれも長くは続きそうにない様相だった。俺がここに来るまでに目にした身寄りのない子供によく似ている。それにしても、街の路地裏に転がっている者とは比較にならぬほどの過酷さではあるが。
 その子供は、俺が踏み出した足が雪を割る音に体を大きく震わせた。
「ひ」
 顔を上げたところで、俺とそれとは目が合った。喉の奥から発せられた声に俺もつられて、息が鋭く漏れた。それからは声無く音無く居つくした。
 俺の視線は、自覚できる程に冷たく鋭利なものだった。人の形をした人ならざる者だと確信する他なかったからだ。氷の刃に相対するのは、凍えきった怯える視線だった。
「あの」
 しばらく沈黙していたからでもあろう、掠れた男児の声だった。弱々しい。彼は震えの止まない唇で続ける。
「一緒に、山を、下らせてくれませんか」
「――」
 俺は目を、どことなく逸らせた。どうしようかはすぐには決められない。子供は生命を維持するだけで全力を使い果たしている。誰の助けもなければ容易く死ぬ。しかし俺とて、俺とて今をつなぐのに精一杯だ。二人分を充分に支えることはできない。もし、この子が路地裏の荷物の陰から出てきたならば、宿屋に招いて、体を洗わせ、着替えさせ、パンやスープでも与えてベッドに放ってやればいい。だが、今はその慈愛すら俺を殺す。自愛を与えることが俺の命を絶ちかねない。思い倦むこと、暫し。次に俺の口から出た言葉は、
「お前はどうして、こんなところにいるんだ」
 悲痛な叫びに応えるはい、でもいいえ、でもなかった。純粋な疑念だった。
「家に、いられなくなって」
 彼は痛々しく告げた。親の人間関係と金の不始末に日々の生活が侵され、もうダメだと思い山に逃げた。しかし家からかき集めた食糧も長くは続かず、山を下ろうとした矢先、この雪に見舞われて身動き取れなくなった。そして、気を失いそうになった先ほど、俺が来たということだ。
「そうか」
 口に広がるのは味無き渋みだった。俺は鞄を置き、身を屈めた。
「それから、よく生き延びたものだ」
 彼は頷き、汚れた手袋で近くの雪を掘った。分厚く真っ白な雪の下から出てきたのは、赤褐色の氷だった。俺は思わず顔をしかめる。彼は俺を見た。
「……これは」
 食ったというのか、と言うと頷いた。じわりと危機感が俺の胸を襲った。異常な風景だと思った。
 血腥い色をした氷の下には獣の骸が埋まっている。小柄の――例えばウサギの。
 このくらいの子供が、獣を殺して肉を食えるものなのか。食えるものか。
「お前、こんなの生で食ったら」
 子供なら間違いなくまずは腹を壊すだろう。同時に寄生虫にやられる。自らの命と交換するにしても、見合わない大きさの危険をはらんだ選択であるはずだ。この年齢であっても、その程度は理解しなければならない。
 この子供は申し訳なさそうに頷く。まるでつまみ食いを指摘された時のように、この光景には悉く似合わない所作だった。やはり怪物の類ではないのか、と理性が暴れる。これは間違いなく異常なのだ。俺はしばらくしてから、再び雪が風に吹きつけられるまでただ立ち竦むしかできなかった。



 雪山の夕暮れは格別な痛みを伴う。
 当然昼間も寒いわけではあるが、日が落ち始めてからは崖から落ちるように気温が下がる。装備のわずかな隙間からでさえも、熱が急速に奪われていくのがよく判る。俺はこの世界の異物としてみなされているのだ。世界が早く仲間になれ、と言っている。もしこの過酷な環境が手厚く盛大なる歓迎だとしたら、俺は独りでそれに必死に抗っていることになる。小さく土に汚れた俺がたった独りで。さぞ、滑稽だろう。しかし諦めの悪く矮小な俺は、浅い洞穴の中で雪をやり過ごしている。
「ぎっ……」
 洞穴には乾いた薪が重ねてあり、薄手で煤汚れたような布が四枚ほど畳んで置かれていた。誰かが休むのに使ったのだろうか。
「っぅ――」
 中程に薪を組み、火を灯した。湿り気の無い小気味のいい音が壁に反響している。俺は順調に燃えてゆく焚火をぼんやりと眺めている。
「――――っは!」
「……やっと噛み切れたか」
 溜息は白い。正面には火を挟んで、例の子供が必死に干し肉を噛んでいる。ようやく一口大になった肉の欠片を口の中で転がしたり歯を立てたりして、満足げに食べている。俺もそれを見て細長いものをくわえる。
「味わって食えよ」
 ふぁい、と幸せそうな声。まあ、生臭い肉を貪るよりはよっぽど人間らしいというか。狭い空間を共有しているだけに俺を食い散らかされても困るからだ。  結局、俺は見捨てることができず、件の子供と行動を共にしている。寝袋は俺の分しかない。夜になる前にどこか凌げる場所は無いのか、と探しているとまもなくしてここにたどり着いた。俺が山に入ってからこんなに都合のいい場所は見つけられなかった。雪の中でシャーベットになりつつ眠ることになるかと思っていた矢先のこと、俺は不思議さに頭をひねるよりも天恵に感謝するのでいっぱいだった。
 鞄の中を再びまさぐる。燃料はあと三回の焚火ができるほどはある。金など、今は何の価値もない。生き延びてからだ。あとは袋入りの干し芋がまだある。口を乾かすだけの携帯食料はほとんどない。飲料水は小型の鍋に入れ、火にかけているこの憎き雪と氷。あと一回分程度は野営もできる。そして、鞄の底に手を伸ばしてみると、
「? それは?」
 見慣れないであろう瓶に子供が言う。
「酒だな、何かの蒸留酒だ」
 いつか立ち寄った先で買って、宿でちびちび飲んでいた残りがまだあったのだ。軽く回すと褐色のガラス瓶の中でちゃぽん、と音を立てる。
「旅の護りに、と店の人が勧めてきて買ったんだ」
 気のいい中年女性だった。携行品を買い足した後、店を出ようというときに思い出したように、
「そうだ、これも持って行って!」
 と強く勧められた。でも、と俺が渋っていると、値段なんて気にしてないから、と半値よりも安く売ってくれた。酒は嫌いではないし、眠りを促してくれるからと思い買った。そのとき旅の幸運が何だとか、お守りだとか、その他様々伝承を聞いた気がするが忘れてしまった。ラベルがぼろぼろになっている今、思い出そうにもできない。
 俺は何の気なしに瓶を開けた。強い酒の匂いが鼻を刺す。悪くない。
「少しだけ飲むか」
 カップに少量注ぎ、ぬるま湯になった雪解け水を適当に入れる。ここに暖かいベッドは無いし元々俺は酒に強いわけではないので、そのままこれを呷ることはしない。ごく少量を掬うように口の中へ入れる。薄めてもなお熱く口に、喉に広がってゆく。久しぶりに味わう感覚だった。
 まだ干し肉を口の中でもてあそんでいる子供が興味ありげにこちらを見ている。
「お前も飲むか?」
 いや、いいです! と首を振るものの、何となく飲みたそうな色に見える。生きた動物にかぶりつくような子供が酒を飲めないこともあるまい。
「消毒だ、飲んでみろよ」
 冗談半分に勧めた。子供はカップと俺の顔を交互に見ていたが、しばらくするとおそるおそるカップに口をつけた。きっと俺より少ない分量を口に含み、勢いよく嚥下した。すると、すぐさま咳き込んだ。
「あー……、悪かった」
 アルコールが喉を焼く感覚にであろう、思い切りむせている。すぐさま雪解け水を流し込んで薄めていた。俺も慣れないうちは時々こうなっていた。初めて酒場で飲んだ時に、連れてきてもらったおっさんに思い切り笑われていたっけか。そのとき分からなかった、思わずこぼれる笑いの意味が少し分かった気がする。俺は子供の背中を軽く叩いてやる。
「お前もいつか誰かにこうする日が来るさ」
「そうなんですか……?」
 おそらく冷たい空気のせいもあったからだろう、彼は肩を大きく上下していた。



 洞穴の外はどっぷりと夜に浸っている。子供は少しだけ会話を交わして以来、顔に安心の色が見え始めた。主に俺の旅での行く先々に出会った話に思いのほか興味を示して、時々ほぐれた表情も見えていた。俺の話は、自身特段面白いとは思っていない、どちらかと言えば人情話ばかりだ。聞くところの不運な家を飛び出した彼には良かったのか、悪かったのか。かと言ってそれ以外に施せることも持ち合わせていない。できる限りの布にくるまって眠っている彼が、少しだけ安らいでいるような表情を浮かべていることを信頼してもよいのなら、俺は少しだけ肩の荷が下りた気がした。
 仄かに酒が回っているのに気付く。水割りはまだカップの中に、あと数口分は残っている。激しい風は止んだ様相の外だが、依然雪は降っているようだ。ちゃんとした宿なら雪を見ながら飲むのもいい。ふとそんな光景を思い浮かべてさらに一口水割りを飲み下す。温さもとうに散ったのに、しっかりと体内を焦がす。
 ふと洞穴の天井を見る。視線は泳ぐことも歩くこともなく投げ出されている。焦点が合っていない。少し霞がかっているのか。
「いかんな」
 俺の目が探しているのは多分視えるものではない。俺の耳の奥で流れている音楽は聴けない音だ。
 力が自然と抜けている。酒が回ったのか。いや、何の助けも借りていないはずだ。
 一旦意識の中に潜り込んだ言葉は、自ずと頭の中を駆け巡りながら少しも衰える様子は無い。
 ――――



 教会から晴れやかな顔で出てくるあの人、この人。体を皆同じように動かしてひれ伏していた人たちだ。さっきまで同じ形に埋まっていた人たちが、元ある色彩を取り戻したかのようにごく当たり前の姿になっていく。
 俺はいつも、それを不思議に思っていた。スイッチを切り替えたように自分というものを切り捨てたりできる彼らは、そこまでして祈りを捧げて何を得るのだろう。何に満たされて心を燃やしているのだろう。彼らは救われているのだろう、俺の見えないものに抱かれるようにして。見えない俺にはうすら寒い、ただ異質な人々でしかなかった。
 教会を望む丘で俺はいつも、幼いながらに疑いを育てていた。そして、いつも幼馴染の姉妹にそれを邪魔されるのだった。
「おはよー!」
「おはよう!」
「おー、うっす」
 弾けた笑顔で突撃してくるのはその妹。手も足も、全身を使ってばたばたと向かってくる。その影を見守るのは姉。俺と同い年のくせに、ずっと大人びた表情だった。
 この姉妹とは、俺が物心ついてまもなくからずっとの付き合いになる。いや、姉とはこれ以来の付き合いと言った方が正確か。彼女たちとは何をするでもなく走り回ったり、夏には川で水に浸かったり、冬は暖炉の前でトランプしたり、何と括ることができない間柄だった。俺たちは遊び疲れるとどちらかの家に上がる。だいたいそれが丁度腹が減る時間なのだ。その日は昼前で、俺の家だった。母は狐色に焼けた、ミルククリームを挟んだ熱々のパンを出してくれたのを覚えている。
 妹は大きな口を開けてパンに噛み付く。すると口の中に熱いクリームが飛び込み、パンの端からはみ出てしまう。驚き体を跳ねさせる妹に、姉は慌てて食べちゃダメ、と手についたクリームを拭ってやる。俺がバカだなあ、と口走ると姉は横目でうるさい、と抗議する。妹は火傷した口に冷ました紅茶を流し込む。
 窓の向こうでは物干し竿に小鳥が何羽か止まって、何やら喋りかけている。時々足や翼を動かしてちょこちょこと動き回る。そうしていると、家の前の道を通る木の車がバランスを崩したか、大きな音を立てて荷物をいくつかこぼした。小鳥たちは驚いて飛び立つ。軒の上に移ったのだろう、ここからは見えなくなった。どこかそこの妹の動きに似ているようで思わず表情が緩んだ気がした。姉妹は不思議な顔をしてこちらを向いている。何でもない、と言って俺もパンをかじる。



 姉が俺に、将来何になるの、と問う。唐突な質問に俺の動きがわずかに止まる。別に深い意味は無い、と姉が言う。特別の意味が無いとしても何かがあるのではないかと邪推してしまう。しかし知られて困るほどの夢でもない。
「旅に、出てみたいかな」
 その瞬間、何故か空気が固まる。一気に恥ずかしさが俺の中で爆発して、しまったと思うも遅かった。いつの間にか横に立っていた母が嬉々として笑っている。
「ほう、旅ねえ」
 一度に顔が真っ赤になった。
「あ、そうじゃねえっ」
 母につられているのか、姉もにやにやとこちらを見ている。
「へぇー……」
「なになに、誰と一緒に行くの?」
 誰、とは言いつつも指すのは、俺の遊び仲間であり喧嘩相手でもある、無二の男友達のことだ。彼を指す言葉はいろいろあるが、どれが正しいとかというものではなくすべてが正しいものなのだ。それだけ自分にとって大切な人間だということなのだろう。彼は俺の誇りであり、そして弱点でもある。
「うっせえ!」
 はいはい、と母が流す。彼が弱点であることを知っている上で言われるのはなかなか神経に触る。
「旅って、どこに行くの」
 妹が尋ねる。
「あー……それは」
 勢いで飛び出した言葉に行先など無かった。旅に行くことそのものに憧れていたのだから。言葉を濁しているだけで具体的に言葉をつなげないために焦りが滴る。
「考えてなかった、とか?」
 姉が正鵠を射る。ちゃんと考えている、と考え無しに口を動かそうとすると、
「それでもいいと思うよ」
「……どうして」
「旅って無計画の方が楽しいはずだよ」
 姉は手にあるパンを皿に置き、続ける。
「計画立てて行くのもいいけど、知らないものを見たり聞いたり、困難に当たったり、見知らぬ人に親切にしてもらったりしながら生きていく。こういうのが旅なんじゃないかな」
 なるほど、と俺が言葉に少しの感動を覚えていると、妹は無邪気に指摘する。
「お姉ちゃん、それこの前読んでた小説?」
「違う!」
「お姉ちゃん物凄く熱中して読んでたもんね」
「あらあら、珍しいこともあるものね」
 必死の抵抗も虚しく、姉は妹と母の攻撃に顔を真っ赤にして二の句を告げずにいる。姉はじっとしているのが性に合わないためか、読書することはあまりない。知識は耳から入ってくることの方が多いらしい。母の言うように、読書なんて珍しいこともあったものだ。しかし今は、その行動ではなく、姉の心から出た言葉に俺の心は傾いていた。
「行き先は、これから決めればいいのか」
 ぽつり、と零した一言をきっかけに――何となくではあるが――そのとき既に、俺は温かい眼差しで背中を押されていたのかもしれない。


 無言の眼差しで背中を押されて、数年。俺は本当に背中を押されて旅立つ時が来た。出発の時、俺の周りは見知った人、何となく知っていた人、通りすがりの人でいっぱいになっていた。
「気ぃつけて行って来いよ」
「楽しんでおいで」
「土産たくさん持って戻ってこい」
 いろいろな声が綯交ぜになって、耳には歓声として伝わってくる。見渡せば、着ている服も、背丈も、顔の皺も、みんな違う。そんな人々が誰の例外もなく、笑顔で一人を見送ろうとしている。
「あんたね、これだけのみんな集まってくれたんだから、ちゃーんと学ぶこと学んできなさいな」
 母が一際大きな声で、俺の背中を思い切り叩く。
「分かってるよ!」
「ほんとかねェ、遊びに行くつもりじゃないのかね」
「そんなわけあるか!」
 冗談としての受け答えに、不意に心からの言葉が交じる。
「この期待に恥じぬように、しっかり生きて帰ってくるから」
 鼻の奥でつん、とする。この声が水を打ったか、辺りが静まる。
「そうね」
 母は俺を見て、言う。何かを悟ったように穏やかに告げた。
「いつでも待ってるから」
 はい、と俺は高らかに宣誓した。湿っぽい音が所々で聞こえた。



 あの日見ていたことは、――一つのものを一心に思う気持ちは、――今になってようやく見えるようになった気がする。
 その姿勢に、俺は全力で報いることができただろうか。



 洞穴に太陽が差し込む。雪の白とは違う、柔らかい黄色を抱いた光。あまねく、中にいる者にも等しく、朝の訪れと雪の止んだことを報せる。
 それに気付いたのは件の子供であった。
 かけられたブランケットと、旅の青年が持っていた厚手の布の中から這い出す。
 洞穴の中は静けさに満ちている。昨晩熾した火はとうに炭となり、その向こうの青年も安らかに身体を休めている。昨日の嵐が去り、訪れた穏やかさに思わず目を細めた。

 子供が青年の首元に指を伸ばす。昨晩の精悍な顔はどこへやら、今は強張らせている筋肉は見当たらない。頬を細い指でいたわるように撫でてみる。困難を乗り越えてきた彼と言えど、触れれば年相応の青年でしかない。
辛い旅の終わりとなってしまった。これは私が操作できるものではなかった。彼の旅を見守ること、しかも最後の最後に看取ることができたのだから、それでよいのではなかろうか。謂れのない一抹の自責の念が残る。
彼は、非常に信心深かった。表面ではそれに気付かなかったのであろうが、彼の生き方は信仰者の鑑と言っても過言ではない。旅の折々に出会う、その土地に生きる者たち。時には受け入れられ、時には拒まれたことだろう。しかしながら、彼が大切にしてきたのはそういったことが問題になる話ではない。それは――

首にかかっている革紐を手繰る。意匠を凝らした金属の中心に、深い緑の玉が埋め込まれたアクセサリーが覗く。
「『信じる者は救われる』……」
 そう、信じてくれたのだろう。そして、見合った以上のものを捧げてくれた。ならば、私ができるだけのものを与えよう。
 子供の手は再び、息の絶えた青年の頭を柔らかく撫でる。



 旅人ならば誰でも知っているという言葉がある。

「旅の子供は手厚く看よ」

 旅先に出会った子供には貴賤問わず手厚く世話をせよ、というものである。由来は諸説あるが、一つは古くの旅人が実際にそうした結果、旅の幸を神が祐けたという伝承である。旅人はこの逸話に遵い、またこの逸話の子供が付けていたとされる緑玉をお守りとする。そして、旅の幸運を願うのだ。
 春、芽吹きの季節。峠にも緑が蘇る。白や黄色の蝶が、ささやかな花に止まっては羽ばたいてゆく。
 閉ざされていた山を新たに踏み開く者たちがいた。彼らが歩く最中で目を引いたのは、その植物でも、峠の景色でもない。その中に美しいまま、身体を横たえた青年がいたのだった。それはまるで剥製のように美しく、しかし生身であった。雪の装備を見ると、そこで亡くなったことは容易に分かる。
 旅の一行は、初めは不思議に思い、何か妖怪や幽霊の類かとも考えた。しかし、それはあっという間に氷解する。青年は両の手で温めるようにしてお守りを包んでいた。





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